我々Lucy Projectは、基本的に小劇場演劇はしない。
まあ、小劇場的な要素が普通に舞台や映像作品に浸透している昨今、いまさら小劇場演劇とは何かといってもやるせないが、心情的表現や綿密なストーリー性を重視するというよりも、会話のリズムや間合い、舞台の奇抜さ、大胆な動き、ストーリー展開の意外性で観客を魅了しようとするスタイルといっていいだろう。
しかし、私は今回、その小劇場演劇の原点ともいうべきつかこうへいの「熱海殺人事件」を上演した。そのわけは、「熱海殺人事件」の戯曲をはじめて読んだとき、そのベースに流れる人間の悲しみを感じ取ったからである。
人間の世界にはつねに強者と弱者がおり、強者は自分の地位があびやかされることを恐れ、弱者は強者に嫉妬心を抱いている。そして、人は誤解と錯覚の中で交わりすれ違ってゆく。表面上はギャグ満載の破壊的な作品に見えるが、その底流にはしっかりとリアリズムが生きている。
したがって我々が上演した「熱海殺人事件」は、戯曲の<飾り>部分をそぎ落とす作業でもあった。といっても、熱海は熱海である。白鳥の湖、花束たたきは盛大にやらなければならない。そのあたりは大いに楽しんでやらせていただいた。
さて、「熱海殺人事件」を上演するにあたりもうひとつ考えたことがある。それは、この昭和50年代の作品を、今まさに終わりを告げようとしている平成を超えた次の時代に伝えたいということである。そのためには、次の時代の中で、この物語がどのように展開するかを表現することにした。
では、次の時代とはどういう世界かというと、おそらく「ダイバーシティ」がひろがった世界であるはずである。ダイバーシティとは「多様性」のことで、もともとは労働市場において個人が持つ違い(性別、人種、国籍、宗教、年齢、学歴、職歴など)を受け入れてそれを活用することを指しているのだが、いずれはこの考え方がひとつのイデオロギーとなりさらに広がりを持ってゆくだろう。ある意味、我々が目指すべき理想的な社会である。
女として生まれながら男として生きる熊田はその象徴的な存在であり、バックダンサーズが、手話を使った振り付けをしているのもそのためである。つまり、今回の舞台設定は現代としているのだが、実はもっと先の近未来を暗示したものだったのだ。
我々が描いたのは、そんな時代でも起きてしまう「悲劇」なのである。
微力ではあるが、「熱海殺人事件」という作品を次の時代に送る一助となったことを自負しながら今回は筆をおきたいと思う。
豪雨と地震の影響の残るなか、ご来場いただいた皆様には感謝、感謝である。
平本たかゆき